日本ではほとんど知られていない、美術家 Florentina Pakosta (フロレンティーナ・パコスタ)のエキシビション(ウィーン・アルベルティーナ美術館)より。
芸術分野における女性差別に反抗し、ひたすら男性を観察し、細部にわたって描き続けるFlorentinaの代表作が、Menschenmassen [Crowds of People] のシリーズ。群集をモチーフとした作品群は、資本主義社会における主体の消失を表現している……とのこと。
中でも印象に残ったのが、『Forming Male Society』。
どこかレーニン・マンに似た中年紳士が集い、一つの社会を形成しているが、その誰一人として同じ方向を見ていない。
似た風貌、似た表情をしているが、個々に内在するものはバラバラであり、それが集団の本質といえばその通りかもしれない。
ではなぜ、人は群れ、社会を形成したがるのかといえば、この世界を生きるのに一人では機能不足だからだろう。
電気もガスもない原始的な村でさえ、狩りをする人、子を産む人、料理をする人、統率する人、それぞれに役割を分担している。一人で全てを請け負って、完全に一人で生きている人はほとんど無い。つまり、社会はそれ自体が目的ではなく、それぞれに異なる機能をもった人が、この世界で生き延びる為に相互的な関係を築いた時に生じるもので、社会を存続させる為に自身の機能を完全に他に合わせるのは本来は間違いなのだ。しかしながら、個より社会の方が強い力を持つと、主従の関係は崩れる。個が生きる為に社会を形成するのではなく、社会が存続する為に個を必要とするなら、それは支配であり、個の隷従に他ならない。
『Forming Male Society』の趣旨とは異なるかもしれないが、個が社会の中で埋没していく様子を具象化すれば、この絵になるだろう。
個々に異なる思想や感性を有しているかもしれないが、社会というマスの中では、みな似たような風貌、似たような表情になっていく。
見ている方向も、考えていることも、それぞれ違うのに、いつしか画一化され、枠の中に押し込められていく。
だが、それが悲劇ではなく、一つの集団として機能していることを思うと、人が尖った個を失っていく――失うというよりは、適応と言うべきなのだが――のも、生き伸びるための能力という気がする。皆が皆、個を強固に持ち続ければ、社会も機能せず、それは即ち、個の死を意味するから。
ところで、この絵の中心人物は誰であろうか。
ある一人に焦点を当て、そこから広がるように様々なMenが描かれているのが興味深い。
アルベルティーナ美術館・公式サイトより
https://www.albertina.at/en/exhibitions/pakosta/
Florentina Pakosta エキシビジョンより
口がジョウロと化している、お喋り男もいるね。
口から出た言葉は二度と返らない。
その後、責任もとらない。
彼の思想は、果たして生産的なのか。
単なる排泄物ではないのか。
誰がそこに腰掛けて用便するのか。
そのことに本人は気付いているのだろうか。
彼の言説を頭の蛇口で調節することができたら、さぞかし世の中もよくなるであろう、という風刺。
「黙れ」という代わりに、この絵を貼り付けるといいよ。
世の中には、二枚舌よりなおたちの悪い、マルチヘッドな男が存在する。
創造的に使い分けるならいいが、都合が悪くなるとこっち、こっちが悪くなるとあっち、といった具合に、態度も考えもコロコロ変わる。
処世術といえば聞こえはいいが、その実、自分でもどれが本体か分からない変節漢かもしれない。
Florentina Pakostaの描く男性の頭部は、どれも肉感があって、気味が悪いほど詳細。
にやり笑いにも、照れ、下心、悪意、様々なニュアンスが潜んでいる。
三色だけ使って描かれた躍動的な絵画。それぞれにリズムとストーリーがあるのが興味深い。
Florentina Pakosta エキシビジョンのプロモーションビデオ。